龍樹中論 思考の限界と言語化の限界

日本浄土教の信徒が調べたメモです。

空の問題は言葉の問題が中心となっていて、その意味で、言葉の論理であり、言葉の哲学である。
思惟とその対象は、その思惟を極限まで進めると、その対象を失い、思惟自体もまた消滅する。
語りえないものについては、沈黙しなければならない。

龍樹(中頌)の批判の対象は、形而上学的実体としての法(ダルマ)を想定する説であり、説一切有部の五位七十五法・三世実有・法体恒有がこれにあたる。

有部は、事物が自性をもって実有として存在するという法有の思想を教義とする一派である。
有部は、現象世界から概念を作り上げ、それを名付けた。
有部は、観念や思惟の世界にある存在(名付けられたもの)を、形而上学的な存在と見た。
有部は、思惟の世界に存在の範疇を持ち込み、実体を立てて論理を構築した。
有部は、名付けられたものに対応する実有の存在が現象世界にもあるという認識を持った。

中観の実体論批判。
龍樹は中頌にて、言葉で表された形而上世界に実有を持ち込むと、相依性、空のもとでは、矛盾や齟齬が生じ、論理が破綻すると論じた。
さらに、すべてのものは真実には存在せず、単に言葉によって設定されたもののみであるとする。
尚、これは形而上世界の言語批判哲学であり、現象世界が実際にどうであるのかとは何ら関係がない。

これで読みだす前の準備の準備ができたかな。